浅き夢見じ。
「見事なものでしょう?」
黒を基調とした留袖。銀糸混じりの島田髷に、誂えさせたかのように解けあう銀の簪。
混じりけの無い穏やかなる笑みに、目元には柔らかい鴉の足跡が刻まれる。
「この、御屋敷の」
いやに歌舞いた格好に、目の玉を模したような紋の薬箱を背負つた男は呟くように返す。
並ぶ老婦人と男の目の先には、重たそうに頭(こうべ)を垂れる藤の棚。
「ええ、こんなしがない屋敷だけれど…此れだけは自慢できますわ。」
私の生まれた朝に、植えられたものですの。
藤を見ているのか、或いは其のもつと先に幼子である自分を見ているのか。
歳月を感じさせる太くどつしりとした藤の幹は、老婦人の重ねた歳月と比例しているのだろう。
「ふふ、この藤を見ているとねえ…どうしても思い出してしまうひとがいるのよ。」
そう、丁度こんな花霞の皐月の日だつたわ。ようく覚えていますもの。
静かに言葉を紡ぐ老婦人の口元は、少女めいた花の綻ぶような笑みを描いていた。
まあるたけえびすに おしおいけえ あねさんろっかく たあこにしきい…
そう、そう。あそこで歌いながら、わたしは鞠をついていたのよ。
そう、丁度、あの縁側の近くに。
てん、てん、てん。
赤いおおきな帯の花を背に咲かせ、稚児髷の少女が鞠をつく。
拙い調子で紡がれる其れは京の手鞠の歌か。
あっ、…。
そう、そう。二番を歌おうとしたときにね。鞠がこう、手からするりと離れていつて。
ころ、ころ、ころ。
主のちいさな手から逃げ出した鞠は、均一の玉砂利の上へ好き勝手逃げ行く。
こっちへおいで、こっちへおいで。ころころと愉快そうに笑いながら。
物言わず荘厳な構えの表門。客人を手招く藤の花の下、其れは歩みを止めた。
否、正確には『止められた』のだ。
ああ、そう。そのときだったのよ。あのひとが…
何も言わず、幼子へ手鞠を差し出す白い両の手。
男であったのか、或いは女であったのか。其の記憶すら既に、蟲喰いにあつている。
ただ、藤の花の色だけがいやに鮮明に網膜に焼き付いているのだ、と。
「あら、不可(いけない)。」
最早横に立つ薬売りの存在すら、記憶の風景に解けていたのであろう。
少女のようなその横顔は、はつ、と目が覚めたように影を顰めた。
「御免なさいね、こんな詰まらない昔話を…。ああ、私も歳ねえ」
「否(いや)。…情景が、眼に映るようだ」
細められた男の目先に映るは藤棚。心持ち、穏やかな其の眼は何を見据えているのか。
「あら、あら。嬉しいわ。急ぎの行商でないなら、中で御茶の一つでも。」
「有難い、御言葉ですが」
夢のような、先刻の話が…醒めぬ内に御暇致しましょう。
老婦人の申し出を丁重に断って、男はのらりくらりと其の背を小さくさせ行く。
指先には、ひらり舞い落ちた藤の花弁を弄りつつ。
男の背の、目の玉の紋が小さく消えるまで、老婦人は穏やかな笑みで其れを見詰めていた。
「あっ、…。」
そういえばあの薬売りの爪の色は、
網膜に焼き付いている藤の花の色と同じだったと。
老婦人が気付いたのは、もう男の背など夢の如くに消えて随分経つてからだつた。
― 幕 ―
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紳士で粋なお薬が書きたかったのです。
薬売りさんは何十年、何百年と姿を変えずに生きているんじゃないかな、とか
そんな妄想の産物。(爆)
時の移ろいの中、ひとつ、それらに流されない奇特な存在。
美しくもあり、寂しい情景を感じていただければ幸いです。